羊のことば

小さく小さく

どうしようもない弱さ


f:id:sheepwords:20210326005133j:image
一人の脳みそは小さく脆弱だ。

すぐに情報で飽和状態になり、大切なものさえいくつも取りこぼす。

それで良いのだろうか?

心のない人生はなにだって構わないのだとどこかで覚ったことをなぜ忘れてしまえるのか。

泣いても仕方がない。

心は泣いているか?

失いそうな心は心に泣いているのか?

どうすれば人は人をやめないでいられるだろうか。

大切な約束などを忘れるというのは人を失っている兆候だ。証拠かもしれない。

誰かの気持ちを取りこぼしているんだ。

誰かの切なる気持ちをないがしろにする行為なのだ。

自分一人のためでは問題にはならないが、誰かを損なう結果を伴うことがゆゆしきことなんだ。

心を失っている。それもずいぶん以前から。

それは生きるに価しない生の没落だ。

 

どうすれば取り戻せるのかという話ではない。

その状態に持っていっている自分が下した決断の責任を追求しているのだ。

「お前が生をないがしろにしたのはいったいどういう了見だ」と問われている。

それは明白な歴史問題なのだ。

「お前はこの先同じことを繰り返すのだろう。だとしたらそれは価しない生を肯定する悪行を続行することと同義だ」と糾弾される。

それは死を幾界も超えて恐ろしい罪と、罰だ。

本当にその事が一番恐ろしいのだ。心を失うことこそが。そして、心を失うことが恐ろしいのだという知恵を忘れることが。

取り返しのつかないことをしているという厳然たる事実を突きつけられて、恐れおおのいても歴史は変わらない。

そこには罰がある。償わなければならない罪がある。

どんなにどんなに取り繕ったところでそれはすぐ隣にある。目をそらしたとしても、心がそれを記録し続けている。全て勘定して、そしてその債務の明細を一度に突きつける準備はいつでもできている。

 

なにをして過ごそうか。

何一つ許されることはない。

自分の心が許さないだろう。

このままでいることを容認するか、決起して心に奉仕するか、二つに一つしかない。

さらに悪くなることができる。だとしたら、ただひたすら透明になっていくばかりだ。ゆっくりと石になっていくのと同じだ。

どうやって変わればいいだろう?

誓約をするのを急いでも、それは反古にすることを約束している行為に等しい。

自分の心に必要なのは印字された条項なんかではない。それを作成したところで、契約は破り去ることができることを説明しているにすぎない。

計画は常に頓挫する。

どうして心から目をそらすようになったのかを明らかにするんだ。なぜなら一度は心を失うことの恐ろしさを知っていたのだから。

その知恵を忘れさせた、自分の内部の働きをつまびらかにするんだ。

それを憎み、敵視し、生涯に渡りそれと対決する歴史を紡げ。

この内的命令、召命と言い換えてもいい、それがなぜ発令されたのかを小さく脆弱な脳みそを振り絞って考えることだ。

それが贖罪だろう。