羊のことば

小さく小さく

世界が存在しないことの様式


f:id:sheepwords:20201001013859j:image
世界は存在しないというのは分かった。世界が全ての意味の場についての意味の場であるという定義の下であれば。しかし、我々が世界を呼ぶ仕方は、そのもとで全ての意味が起こるということを第一義としているのではないとを今一度思い直してみよう。

 

世界とは、すべての意味の場の意味の場、それ以外のいっさいの意味の場がそのなかに現象してくる意味の場である。(『なぜ世界は存在しないのか』、講談社選書メチエ、109頁)

 

世界は何より、そこに私が投げ出されて、私が対峙しなければならない現実として、まず私は経験するだろう。そこにおいて全ての現象が意味として浮かび上がる場所、ではなく、そこは本質として私を含まない、私を除く全てが現れる場所である。

 

世界はその点では、私の視野に等しい。私の五感、私の窓だ。世界とは窓だ。であるので、世界は私に現れる意味の場とはならない以上、世界が存在しないという構成上の理屈は実際成り立たない議論もできるが、ここではそこを深く追求するのは止めよう。今は世界が私にとって投げ込まれている当の場所であり、そこから私の内には無い意味が私に到来する(あるいは私が意味に晒される)場所ではあるが、私自身を産み出し、養育し、私を生きるようにさせた母体(コーラ)ではないということを言うに留めておこう。

 

マルクス・ガブリエルが存在の成立をそれ自身の論理的構造から否定する世界は、従って、限定的な使われ方の世界に限られる。そこにおいて全てが説明されるはずのXが想定されることを否定しているのだ。科学それ自体はガブリエルも是とするものであり、科学的知をすべての存在の「根源」と信じる主義主張に異を唱えているだけなのだ。ガブリエルはそれを偶像崇拝と同じフェティシズムによるものと説明する。

 

定義を違えればそもそも論が成り立たなくなるのは当然のことであり、あまりこの角度から追求してもフェアなやり方とは思えないので、世界の存在様式について述べるに当たり、全体主義的な言説に陥らないよう注意しながら論を進めるように努めることにしよう。

 

さてここで、世界ではなくでは何が私に意味をもたらすのかを問うならば、それは先程も言及したように「到来」によって、もしくは世界からの「出会い」において、と答える。意味がその偶発的に観測される「事件」とするところにそれが起きる場所である世界の意味からの疎外を確認することができる。

 

意味の場を再定義する。ガブリエルは存在は「常に意味の場において存在する」としている。私もその通りであると思うとともに、その意味の場は私と所与の「到来するもの」と出会うところにのみ成立する、と考える。意味の場とはここではデリダの引用するティマイオスの「コーラ」ということになる。そしてそれは常に存在の背後に退きつつも、存在「前」には存在を予期し、用意し、待望し、存在の現前とともに背景へと退くことを本質とする。

 

コーラとしての意味の場は、意味の場における意味の場ということをこそ成立させないものだ。すなわちコーラにおけるコーラというのはありえないのだ。意味の場はそのうちに現れるものの到来とともに消散してしまうからだ。コーラとは、語りえないものの類なのだ。

 

存在はあるコンテキストに「おいて」の他に存在することはない。というのは鋭い指摘だ。存在と場所は不可分な関係だ、そして、その「おいて」には存在という語に親しい程に一般的な概念として「場所」なるものが対応する。その場所こそが、意味の場なのだ。

 

世界は外なる対象だ。私の目を窓枠にした外の景色だ。世界はおそらく射影的なもので、現象から世界へは一方通行に投影する一方、世界の側から現象を復元することはできない。それはあくまで次元を減少させた影のようなものに過ぎない。それならば、世界のなかで世界を対象に取るようなことも可能ではないか。世界はプラトンの洞窟の壁に過ぎないのであれば。

 

世界は、世界のなかに現れてはこない。(同、110頁。)

 

意味の場とはそれでは一つの神ではないかという指摘について応答しなければならない。神は彼方のあなたとしてある。

 

存在の四つの様式というモデルを導入する。ここでモデルは世界像ではなくあくまで仮説的な試みの範疇を出ないことを断っておく。この、存在の様式は一般に存在というのとは異なっている。存在の様式は率直な言い方をすれば「ある、というこの感じ」だ。

 

私―世界―あなた―神

の四つを私にとって現に存在する四つの実体とする。私の窓から見える事柄の四種類の現れ方とも言い換えられる。これまでの、世界は存在しないという文脈での存在は、この四つのうち、「世界」に属する。それはただ在るという仕方の存在だ。物的であり、在るか無いかが問題とされる。

 

一方「あなた」はその物的な存在のあり方とは異なり、在るか無いかという問題範囲に収まることはない。たとえ「あなた」は実は存在しないのだとしても、それでではもうお終い、さようなら、という態度をとることはできない。その者はたしかに私に影響を与えたし、これからも私の亡霊であり続ける可能性がある。「実は存在しなかった」という事柄の真偽の価値の質が、「世界」に属する物に対するのとは決定的に異なり、その事態はそのまま私にとっての語りかけ(メッセージ)として受け取られる。「世界」における非存在は私にとってなんの関わりもないが、「あなた」の不在は、もう私に関わってしまったものの欠落という経験であることになる。

 

「神」はその向こう側だ。私ともはや無関係ではない窓の外との約束、また、契約の象徴的語法だ。世界は、日常会話的に私に対峙するものとして語られる場合、「神」に属するものかもしれない。「神」はもちろん神として語られるものであるし、運命や人権と呼ばれることもある。それは私自身をこの現実に「相応しくする」約束と私が信じるものなのだ。

 

「私」は私が、私のことだと感じるもののことである。全てはここへと立ち戻ることによって、私にとっての意味となる。

 

宗教の特質は私が自分自身に対し隔たっていることにその本質があるというのがガブリエルの表現だ。そして、これは「神」を「私」に見出すことが大切なのだということと解釈できる。

 

神とは、どんなものも――たとえわたしたちの理解力を超えていようとも――けっして無意味ではないという理念にほかなりません。(同、220頁。)

 

キルケゴールの定義によれば、「神」とは「すべてが可能である」という事実のことだからです。(同、235頁。)

 

芸術においては、退くものとしての背景の気付かせを近代芸術は明確に企図していることをガブリエルは伝えている。

 

対象は、そのようにしてわたしたちと世界とのあいだに立ち、自らの身をもって自らの意味の場を覆い隠すとともに、世界それ自体は存在しないという決定的な事情をも覆い隠しています。(同、267頁〜268頁。)

 

結局の所、いっさいのものは何らかの背景の前に歩み出ていますが、当の背景がそれ自体として前に歩み出ることはありません。たとえばマレーヴィチの作品を出発点とする思考の歩みを自らたどってみれば、このことに気づき、世界は存在しないことがわかります。いっさいのものがその前に歩み出ているような究極の背景それ自体などというものは存在しません。(同、268頁。)

 

意味の場が何者をも存在することを受け入れる揺りかごであるのはやはり「神」のようであるが、その形而上学的性質の非形而上学的遺失によって、意味の場は形而上学であることを免れている。

 

意味の場は上述の四つのカテゴリのいずれにも属さない、というのは意味の場であるコーラは私の窓そのものであるからだ。つまり存在の到来を待ち望む額縁、用意されているのは絵ではなく額縁、そこにおいて絵画はまっさらな状態から描かれるのだという当の舞台。絵画は我々はそれが白紙から描かれたというその事実性に価値を見出すのだ。

 

ガブリエルの言う主観的パースペクティヴィズムでもなく客観的パースペクティヴィズムでもない「存在論的な事実としてのパースペクティヴィズム」は、この地平を指していると考えることもできる。つまり、人は自分の持つ窓からしか《世界》を眺め渡すことができないという有限性とその後の地平を。

 

マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』は全体主義の萌芽的心象とすら決定的に決別する書だった。そうであることに疑いの余地はない。しかし私個人としてはこの四つのカテゴリにおける意味の場すなわちコーラの位置づけを見出だせたことが最も大きい収穫だった。

 

思弁的実在論の旗手メイヤスーの『有限性の後で』にせよ、新しい実在論ホープ・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』にせよ、彼ら新しい時代が声高に呼びかけているのは、どの信念信仰も等しく実在可能的であること、そして唯一つあるいは有限数の真に実在する実体のみ可能であるという主義主張を排除すべきであるということだ。

 

そこから語り始められる哲学とはなんだろうか。

私にとっての外部である世界から意味がどのように私に訪れるか。この《私》として何が大切であるかは未だ明らかにはされておらず、この地平の先にある予感を抱く。