羊のことば

小さく小さく

有限性の後での後で

カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』(人文書院)を半年くらいかけて読了した。

哲学史を時代として求められている科学哲学に引き継がせるための基礎研究的側面があった。

次回への課題は数学の絶対性と安定性を存在的および存在論的に(もちろん事実論的原因から)証明する、ということで、それを早く読みたい気持ちだ。

一番の見所として、副題にも示されているように〈偶然性〉こそが必然的かつ絶対的で、それ以外はそうではないということを明らかにする展開が非常にスリリングで、読み物としても楽しめた。

非常に雄弁で、時に詩的にもなる文体は半年も私を惹きつけて止むことはなかった。

しかし、難解は難解で、私では半年かけてやっと一周を終わらせることができる程には思考力を伴う読書だった。

この書自体は、情熱的に強い動機のもと書かれたのだろうことは一目瞭然で、それは科学への思考を哲学として行うにはあまりにも乖離した、カント由来の非接触主義的現代哲学思潮を打破したいという、〈喫緊の課題〉の解決を望むべく練られていた。

若干辟易するのはその思いの強さゆえの性急さだろうか。

ただ確かなのは、カントから現代へ続く思潮を相関主義と呼び、それがもたらした哲学の科学に対する冷めた視座への批判の精確さ鋭敏さには驚嘆の色を隠せないということだ。

恐ろしく秀逸な時代的書物だ。

2006年に著されたこの書物はもう古典だというのに、それ以後大学生だった私の耳にはついぞ聞こえてこなかったのは、この素晴らしい訳書がおこされたのが2016年になってからだったのだ。 その頃にはもう社会人だった。

仕方のないこととはいえ、なんとなく悔やまれる。

私にとって、いま、『有限性の後で』の意義とは、必ずしもメイヤスーの筋書きに完全に沿うものではない。 おそらくカント批判にこそこの書物の歴史に対して与える影響の真髄はある、と見ている。 それというのは、相関主義のスキャンダルの暴露からの絶対性の復権への道筋を勇敢にも示したことだ。

勇敢にもというのは現代のこの哲学者を茶化す意味合いでも、無条件に崇拝する意味合いでもなく、後追う者に哲学をする勇気を与えたという意味だ。

相関主義のスキャンダルとは、絶対主義的主張への否定にはまず必ず(およそ必然的に)その絶対性を思考しアクセスせずには、その必然性の否定の活動を行えないということだ。 すなわち相関主義は絶対性を思考でき、かつそのどれもが必然的でないことを知っている。 それは偶然性(非必然の知)の絶対性を認めなければ成り立たないとまで言い切る。(p.96より)

絶妙で繊細な議論だ。

もう一度この書物を読むだろう。 その時に簡単な形式化をしてみたいと思う。